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2015/06/08 元祖博多もつ鍋の秘密
目次
はじめに「2代目 水谷崇よりごあいさつ」
本日は元祖もつ鍋楽天地の通販サイトにご来店いただき、心より感謝いたします。
今でこそ、福岡・博多はもとより全国的にもかなりの知名度があるもつ鍋ですが、ほんの数十年前まで、「もつ鍋」と言っても、この福岡・博多においても、ほとんどだれも知らない、まさにほおるもん(=捨てるもの)のような料理でした。私も高校時代に、部活が終わった後店に戻り、福岡の天神ビブレの街頭にたってお店のもつ鍋無料券を配っていましたが
「???もつ鍋ってなに??食べたことないよ。」
「ホルモンは焼いて食べるもんやろ??」
「そんな得たいの知れないもん、頼まれても食べんばい!」
こんな声が圧倒的で、全くと言っていいほど無料券は利用されませんでした・・・。
元祖もつ鍋楽天地の2代目 水谷崇(みずたにたかし)と申します。今年で45歳になります。
親父が元祖もつ鍋楽天地を創業して38年。
ちょうど、福岡からはじまったもつ鍋という食文化が全国に広がっていく様子と全く歩みを同じくして、大きくなってきました。自分でいうのも何ですが、ご飯を食べれたのも、学校に行けたのも、楽天地でもつ鍋を食べていただいたお客様のおかげです。感謝しています。
もつ鍋勃興期から続く、伝統的な博多のもつ鍋を守っていくことが私の使命とおもっています。今日は、私の知るかぎりの「博多名物もつ鍋物語」をご紹介したいと思います。元祖もつ鍋楽天地のサイトにご来訪をいただいたのも、何かのご縁、最後までお付き合いください(笑)
博多もつ鍋物語、スタートです!
第1章「楽天地」誕生前夜
今から37年前の1977年、読売巨人軍の王貞治選手が世界記録となる756号の本塁打を記録したその年、ここ福岡市天神で「楽天地」のもつ鍋は誕生いたしました。
その数年前に起きたオイルショックの影響により日本の高度成長期が終わりを告げ日本全体が暗く出口の見えないトンネルに入り込んだかのような停滞感が蔓延する中王選手の世界記録は久々の明るいニュースとして大きく取り上げられ、世の中に明るい兆しが見え始めました。
そして、この世界のホームランキングの誕生と共に、たった1店の小さな個人経営の店からもつ鍋という料理が誕生したのです。
この時、後に「福岡3大グルメといえばラーメンと辛子明太子ともつ鍋」と言われ、東京をはじめとした全国でもつ鍋の一大ムーブメントが起きる程にまで有名な料理になるとは誰一人として想像しなかったでしょう。ただ一人、ここの初代店主である水谷を除いては。
実は福岡県にはそれ以前より、もつ鍋によく似た料理が存在していました。戦後間もない頃より、ホルモンをアルミ鍋で炊き、醤油ベースのたれをかけて食べるすき焼き風のホルモン鍋がそれです。
ちなみに、一般的に言われている「ホルモン」の語源は、肉の中でいらない部位=捨てる肉=「ほおるもん(捨てるものの方言)」=ホルモンと言われています。
戦後の混乱期、食べるものにも苦労していた時代に、捨てる部分をどうにかしておいしく食べることはできないかと試行錯誤した結果考え出された料理なのでしょう。もともと捨てる部位であったため仕入れ値も安くお客様にも安く提供することが可能であったこともホルモン鍋の特徴でしょう。
戦後からしばらくの間、特に福岡県においては石炭産業が隆盛を極めており、そこで働く炭鉱労働者を中心に、安価で美味しいこのホルモン鍋は人気を博していました。
ところが、時代は石炭から石油の時代へと移り変わり、あれだけ景気の良かった炭鉱エリアも次々に閉山・閉所していき、街から炭鉱労働者が消えるとともにホルモン鍋も急速に市場を縮小し次第に人々の頭の中からその存在が忘れ去られようとしていました。
もっと詳しく読みたい方は
【第1回 元祖もつ鍋誕生秘話】829万人が食べた楽天地のもつ鍋
をお読みください。
第2章「楽天地」の誕生
そして時は流れ、1970年代初頭に日本を襲ったオイルショック。消費者物価が1年で23%も上昇し、狂乱物価ともいわれる異常な状態が一般庶民の財布を直撃しました。
また一方で、食品業界においては技術革新が進み、食べ物があたかも工業製品のように工場で生産される時代へと移り変わりました。工場で大量生産された安価な食べ物を大量に消費する、いわゆる「飽食の時代」の幕開けです。
このままでは「飽食」が「崩食」になってしまう、そういう危機感をいだいた人々も少なからず存在し、この1970年代から1980年台にかけて様々な健康志向の料理が全国各地でブレイクしました。
また、持ち帰りが主流であったお好み焼きや駄菓子屋のメニューであった焼きそばが専門飲食店として成立するようになったのもこの頃です。
そしてここ福岡では、天神のダイエー(現ダイエーショッパーズ福岡店)裏の雑居ビルの地下1Fに もつ鍋専門店「楽天地」が創業の時を迎えました。
初代店主の水谷は「体にやさしく健康的で、財布にやさしくお腹一杯になり、オリジナルの味でリピートしてもらえるように」をポリシーとしてメニュー開発にいそしみ、従来から地域に伝わるホルモン鍋をアレンジしたオリジナルもつ鍋を完成させたのです。
店の広さはわずか数坪。従業員は店主の水谷とその妻の2人だけ。小さな小さな船出でした。
以降、もつにこだわり、具材にこだわり、スープにこだわり。すべての物にこだわりぬいた楽天地のもつ鍋は徐々に口コミで広がり、ほどなくして博多っ子の胃袋を鷲掴みにすることに成功しました。
その後数年が経ち、現在の天神ビブレの裏にある雑居ビルに本店を移転した楽天地は、その後も福岡市内各地に店を構え、福岡市を代表するもつ鍋専門店へと成長したのです。
もっと詳しく読みたい方は
【第2回 元祖もつ鍋誕生秘話】1992年第1次もつ鍋ブーム去る中、楽天地は・・・
をお読みください。
第3章「第1次もつ鍋ブームの到来」
楽天地をはじめとした数々のもつ鍋店が軒を連ね、もつ鍋が福岡都市圏ではそれなりに知名度の高い料理となった1990年代前半、東京を中心に突如としてもつ鍋ブームが巻き起こりました。
仕掛け人は東京の飲食店ディベロッパーだとか大手広告代理店だとか諸説ありますが、いずれにせよ日本の一地方都市の庶民的鍋料理が全国規模で認知されるきっかけとなる一大ムーブメントでした。
実際、東京においては新宿・渋谷・池袋・新橋をはじめとした各繁華街はもとより、横浜や大宮といったその周辺地域までもつ鍋屋が次々に開店し、1992年にはその年の流行語を獲得するほどの勢いだったのです。
当然、そのブームの噂は楽天地店主である水谷の耳にも入っており、実際に東京進出を持ちかけられることもありました。「具体的に東京へ進出する前に、まずはその地をこの目で見てから決める」そう考えた水谷は、その足で東京へ出向き、街や人の流れを確認し、当時行列ができるほど流行っていたもつ鍋店で食事もしました。
その結果水谷が出した結論は・・・。
「このブームは一過性の物でしかない。いずれ下火になる。従って東京進出はしない!」。
今になって振り返れば妥当な判断であったと言えるでしょう。しかし当時ブームに踊っていた人達からはなんてもったいないと思われたことでしょう。ただ、この判断は店主である水谷の経営者としての勘とセンスにより導き出された結論であり、その理由は以下のような根拠に基づくものでありました。
【東京の「もつ鍋」は、博多のもつ鍋とは根本的に異なる考え方から生まれた別の食べ物である】
実際、東京で流行っているもつ鍋店では、しょうゆベースのスープだけでなく味噌スープやキムチスープ等のバリエーションの多さを売りにしていたこと、あわせて具材も春菊やニンジンやシイタケといったすき焼き風具材からチーズや牡蠣や餃子といった変わり種具材を前面に押し出しているような状態でした。
また、使っているもつも質が悪く、満足に下処理していない店も少なからず存在していました。
もちろん、純粋な博多風もつ鍋を提供している店もあるにはありましたが、ごく少数であり、「博多のもつ鍋」がメインストリームになるとは思えない状況だったのです。
世間はバブルに踊っていた時期。東京進出ともなればかなりの投資が必要であり、それなりに繁盛する店作りが要求されます。東京在住の福岡出身者からも「ぜひ東京に店を出してほしい」という要望も店には届いていました。しかし水谷は、もつやスープへのこだわりを貫けば貫くほど東京では通用しないことを悟り、東京への進出を回避したのです。
その後、さらに時は流れ迎えた2001年。日本の外食産業を根幹から揺るがす大きな問題が発生しました。千葉県で発見されたBSE(牛海綿状脳症)感染の疑いのある飼育牛に端を発した、いわゆるBSE問題です。
マスコミの大々的な報道も相まって日本全体が軽くパニック状態となり、ありとあらゆる牛肉がスーパー店頭から消えました。外食産業においても例外ではなく、牛肉料理はもとよりビーフコンソメに至るまで消費者に嫌悪される状態となったのです。当然、楽天地のもつ鍋も牛もつを使用しているためBSE問題は他人事ではなく、店の存続が危ぶまれるほどの打撃を被りました。来店客数は半減どころか、8割以上も減った日々。
「当店のもつは国内産でしっかり検査もしているため安全です!」と何度も声を大にしてアピールしましたが、あまり効果はありませんでした。
来る日も来る日も、お客様のいないガラガラの店内を見渡せる厨房で、寂しそうに仕込みを続ける初代店主の姿を、当時見習いだった私、水谷崇は今でもはっりと覚えています。ほどなくしてBSE問題も収束しお客様の足も戻ってきましたが、あの時の悔しさと父の無念そうな表情は忘れることはできません。
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【第3回 元祖もつ鍋誕生秘話】もつ鍋の最大のピンチ BSE問題発生!楽天地が取った行動とは?
をお読みください。
第4章「博多美人ともつ鍋」
少し話題を変えましょう。
首都圏や関西圏で、福岡に対するイメージを聞いてみるといった調査がテレビやネットで度々行われています。
様々な回答が寄せられていますが、多数を占めているのはやはり
- 食べ物がおいしい
- 空港か近くて便利
- 有名人を多数輩出している
- 中洲の夜は楽しい
といった回答ではないでしょうか。
そんな中、特に男性を中心に多く回答が寄せられているものとして
- 博多は美人が多い。天神を歩いている女性の平均レベルが高い!
- 博多弁の女性に口説かれたら瞬時に落ちる
という意見も多く見受けられます。
さて、このように噂の博多美人ともつ鍋、一見何の関連もなさそうな間柄ですが、実は博多においてはこの2つがとても密接に結びついているといっても過言ではありません。
創業時からの楽天地のこだわり。
それは脂身を落とし丁寧に下準備したもつと、醤油ベースの秘伝のたれ、そして鍋からあふれんばかりのたっぷりのニラとキャベツ。
そして抗菌・活力増加に効果のあるにんにくと発汗ダイエット効果のある唐辛子。
すべて国内産にこだわり、おいしさと安全安心の両立を図る楽天地のもつ鍋は、女性比率4割を超える驚きの博多名物なのです。
創業時から一貫して味にこだわり素材にこだわり、多くの博多っ子を魅了してきた楽天地のもつ鍋。
ネットのグルメサイトでも「野菜を多く摂取できて健康的」「ローカロリーでダイエット中でもOK」「コラーゲン効果で肌にいい」等々、たくさんの評価をいただきますが、これも創業時からの強いこだわりが生んだ結果であり、そのことが多くの博多の女性の胃袋を掴み、博多美人を生み出す一因になったということは決して言い過ぎではないと思います。
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第5章「ネット通販の時代」
1990年代に入ってからも、もつ鍋専門店楽天地は順調に営業を続けていました。
日本はいわゆる失われた10年と呼ばれる長期の景気低迷期に突入し、消費税もそれまでの3%から5%に値上げされた影響で多くの飲食店が打撃を被る中、楽天地は福岡を代表するもつ鍋専門店として浸透し始め、遠方からわざわざ訪れるお客様も数多くいらっしゃいました。
そういった遠方からのお客様の中には「この店の味を自宅に持ち帰りたい」というリクエストもあり、その思いに応えるために特別に持ち帰り用セットをその都度作ったりしておりました。
ただ、それらはすべてお店に来てくれた人へのお礼の気持ちとしての行為であり、もつ鍋の持ち帰りをビジネスとして確立させようという考えはまだこの頃の水谷の頭の中にはありませんでした。
楽天地も知名度こそそこそこあれど、それは福岡都市圏に限った話。全国的な知名度は皆無に等しく、出張族や転勤族が口コミで広げていくレベルでしか需要が無かった時代です。
それからしばらくして訪れたインターネット黎明期。数多くの情報がネット上を駆け巡り、インターネットを使った通販ビジネスも雨後のタケノコのように次から次に現れてきました。
「福岡に楽天地というおいしいもつ鍋専門店があるらしい」という話も次第に大きくなり、当然のことくこの楽天地にもネット通販サイトの話は数多く舞い込んできたのです。
しかし、店主水谷はこれらの話に安易に乗りませんでした。
「通販もお店で出すもつ鍋と同様、味へのこだわりで勝負しなければならない。ネット通販サイトではそれができない」
「ただし、遠方から食べたいというお客様の声を無視するわけにはいかない。自社サイトで通販を受け付ける体制を整える」
こうやってもつ鍋専門店楽天地のネット通販はスタートしました。
もちろん、店で出すもつ鍋そのままの味が自宅でも味わえる、それだけの改良と工夫を重ねて完成させたもつ鍋セットです。
受け取り人の手間を考え、あらかじめ具材も適度な大きさにカットし、〆のちゃんぽん麺までセットになったこの商品は、瞬く間にネット上で話題となり「食べログ」のもつ鍋カテゴリーでは全国第2位の評価を受けるまでに成長しました。
今では日本全国から感謝の声が毎日届き、もつ鍋専門店楽天地の知名度を全国レベルにまで引き上げることに成功したのです。
楽天地の商品一覧はこちら
第6章「変わる福岡 変わらない味」
九州の中核都市として位置し、人口150万強を擁する福岡市。
少子高齢化が叫ばれる現代において、未だに人口は年々増加の一途をたどりまた全国の政令指定都市の中では群を抜いて若年層比率が高いこともあり、今後ますます発展することが見込まれています。
ここ数年でも、JR博多駅ビルの開業やパルコの増床、ZARAやアバクロなど外資アパレル大手の出店、さらには今後の計画として駅ビル隣接エリアの再開発等も予定されており、九州エリアのみならず全国から人を集める魅力的な都市としてさらなる変貌を遂げることは確実でしょう。
もちろん、外食業界にとっても同様、国内外問わず様々な外食産業が「グルメの街」福岡進出を虎視眈々と狙っています。
もつ鍋をはじめとした様々なローカルグルメ料理が有名な福岡市において、次々と進出してくるナショナルブランドの飲食店やグルメ料理は脅威であると同時に切磋琢磨しあうライバルでもあります。
そういった強力なライバルたちに対する楽天地の戦い方、それはこだわりのもつと具材、創業時から受け継がれるオリジナルのスープに込められた想い。
時代の移り変わりとともに生まれ変わる福岡の街並みと、時代にとらわれず変わらない楽天地の伝統の味。変貌する街並みからぽつんと取り残されたような路地裏の雑居ビルは、いずれ老朽化し新しい建築物へと生まれ変わる時がくるかもしれません。
しかし、この場所で培った味と、何度も通ってくれたたくさんのお客様、遠くから通販をご利用していただく熱烈なお客様、もつ鍋専門店「楽天地」はそのすべてを大切にし、これからも地元福岡にしっかりと根差した愛される店作りを続けていきます。
第7章「父の背中」
こうやって振り返ってみると、38年と言う年月は長いようで短いようで、感慨深いものがあります。
私、2代目水谷崇は、この激動の時代を生き抜いてきた初代店主である父の背中を見て育ってきました。典型的な九州男児である父は、あまり多くを語らず、人前で話すものあまり得意ではありません。ただ、頑固にこだわりぬいたもつ鍋の味と楽天地の暖簾は、父が作り上げた素晴らしい財産であると思っています。
思えば、父が楽天地を創業したのは私がまだ小学校だった頃です。今思えばかなりの冒険だったでしょう。失敗したら家族離散という危機にさらされたかもしれないのですから。
父が創り出し守ってきた伝統のもつ鍋、そして楽天地の暖簾。
私は2代目として、父の思いを引き継ぎ、これからも守り抜いていきたいと思っています。
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【第4回 元祖もつ鍋誕生秘話】メニューはいっさいふやすな!親父の背中…
をお読みください。
皆様、これからも、メニューにもつ鍋しかないもつ鍋専門店「楽天地」を、どうぞご贔屓にしていただきますよう、お願い申し上げます!